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2005.05.24

内藤礼『地上はどんなところだったか』

先日、観にいった内藤礼の個展『地上はどんなところだったか』について、同じ日に観てた知人のineさんがブログに詳しい記事を書かれてました。その記事では、

内藤がこの個展で立ち上げようとしている「死者の眼差しでこの世を見る」というフィクションは、作品自体が語ることよりも、むしろ、こうしたモノを作る者の存在を関知させることで補強されているのだ。こうしたモノを作る者--それは、この世の神秘に魅せられた小学生の女の子のように素朴な魂の持ち主である。無論、その存在自体が内藤によって準備されたフィクションなのだが。
というフィクションとしての「作品」または「作者」よりも、
このフィクショナルな主体(=上で「この世の神秘に魅せられた小学生の女の子のように素朴な魂の持ち主」と形容した主体)を提示しようとする背後の存在、つまり内藤礼その人へと関心がシフトしてしまう。
のような、そのフィクションを操る「芸術家」という人間への関心に基づいているように思います。でも、自分は、果たしてそれは素直な見方なのだろうか?という気がします。

内藤礼さんが個展の開催期間中の4/28に東京芸術大学で行った特別講義の録音を聞きました。そこで、作品における作家の痕跡について訊かれた際、「"人"である私がした行為は信じたいし表現したいけれども、"内藤礼"という私は消したい」と話されていました。(録音データの38分30秒あたり)

この話を聞いて、平田オリザが著書『現代口語演劇のために』で述べている「無為の演劇」と重なるように思いました。

私が考える無為とは、徹底した作為を繰り広げることで、主観性を周到に隠蔽するということだ。(中略)作為は決して主観のために奉仕するのではなく、世界を直接的に描写するために用いられる... (p.33)

ここでの平田の「主観性」というのが「"内藤礼"としての私」に相当するとすれば、内藤さんの「"人"である私がした行為」こそ、想像力を介して作り手と観客との間に間主観的に生まれる「世界」なのではないでしょうか。内藤さんは「行為」と言っていますが、それは平田さんが「近代演劇は「行為」を描く表現で、したがってその行為の動機となる精神が重要視されてきた」(p.35)と批判的に語る意味での「行為」ではなく、むしろ、その後に、
花がある。その花を「見る」「摘む」「愛する」といった行為を描きたいとは思わない。できうるなら、花があり人がいる、そこに関係が生まれる。世界がある。それだけの芝居を創りたい。(p.36)

と書く中の「関係」であり、「世界」であると思います。

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コメント

トラックバックと批評?有り難うございます。
私に言わせれば、個展会場は内藤ワールドそのもので、「この世界にはとても入っていけない」というのが正直なところで、私にとっては、こういう人が居るということ、しかも、もてはやされているという現象の方が面白いんです。

内藤礼や平田オリザが自分の主観に注目するな、と主張したい気持ちはわからないでもないけれど、それはあくまでも作者の身勝手な論理でしかなく、見る側は自由なのだと思います。

私は彼らの主観に興味もないけど、彼らが自分の主観を隠蔽することで提示しようとするフィクションをそのまま受け取ることもできません。彼らが隠すそうとすると、かえってその身振りが気になってしまいますね。その身振り自体も表現の一部でしょう。

手塚さんは個展を見て、どう思ったのかしら?

投稿 ine | 2005.05.24 09:57 午前

ineさん、どうも。たしかにどう観ようと見る側の自由だし、そこがテレビや映画のようにフレームで切られるメディアと違って、自分が演劇の好きな理由の一つでもあるのですが、だからといって、「自分」の見方にこだわりすぎるのもどうかと思います。そこには自分の視線を括弧に入れて、あたかも客観化視してるつもりになるような機制があるような気がする。まず前提として、極論すれば客観なんてものはなくて、すべての現象が「主観」であるとも言えるわけです。その上でその主観の担い手である「私」が如何に他の「私」と関わりうるかというのが、内藤さんや平田さんの芸術表現なのではないでしょうか。「主観を隠蔽する」のは「フィクション」を構築するためではなく、その逆で、本来フィクションにしかなりえない他者を、如何に「私」にとって切実なものとして感じられるかという問いかけのように思います。そういう風に考えてたので、「主観に興味がない」とか言われると、「世界に興味がない」というのと同義のように感じてしまって、(もちろんそんなことないでしょうが^^;)違和感あるなあ。
個展に関しては、別記事で紹介した内藤礼の聖心女子大の講義で(録音の41分すぎあたりからの)内藤さんの「(微細なものによって)世界が変わって見えることがある」という言葉を受けて、茂木健一郎が現代美術の一つの役割として上げられた「認知的変容」という言葉がぴったり当てはまるように思いました。もちろん、それも個人的体験として、ということでしかないのでしょうけど。

投稿 てつか | 2005.05.28 10:41 午前

「主観に興味がない」が「世界に興味がない」と同義になるというのはよく判らないです。おそらく「主観一般に興味がない」と解釈したために、そのような等式が生まれてしまったのでしょうか? 私が興味がないのは、主観一般ではなく、内藤礼本人が作品を作る上で作品に投影している主観のことです。つまり、彼女の作品を前にして「内藤礼はどういう考えで(あるいは気持ちで)これを作ったのだろう?」というような問いを立てる気がないという意味です。作品の背後にいる作者についてあれこれ推理して、その推理から作品を解釈するような鑑賞の仕方ではなく、現実の作者とは切り離した作品自体と作品の提示(画廊という場も含めて)から読みとれること、受け取れることを考えていきたいということです。そして、そこから立ち上がってくる作品の制作者像は、現実の内藤礼その人とは基本的に区別されるべきもの(だから彼女自身が講義でしている発言などとは無縁)であろうと考えます。そう言う意味で、フィクショナルな主体なのです。

「"内藤礼"という私は消したい」という彼女の発言に対しては、「内藤礼ブランドを確立することで成功しながら、なにを言動不一致なこと言ってるの?」と言いたいし、「でも、そのブランドの「内藤礼」は個人的なあなた本人ではなく、フィクションだから、そんなに心配する必要はないんじゃない?」とも言いたい。

ついでに言っておくと、最初の引用を「・・・この世の神秘に魅せられた小学生の女の子のように素朴な魂の持ち主である。」までで止めていますが、その後に続くワンセンテンス「無論、その存在自体が内藤によって準備されたフィクションなのだが。」をカットすると、誤解を招くなあ。というか、手塚さんはこのセンテンスを落として理解したために、あのような批判がでてきたのでは?

そして、2つめの引用で取り上げている、「内藤礼その人へと関心がシフトしてしまう」という言葉を取り上げて批判されたわけですが、その後に続くパラグラフでの話題を読めば判るように、これは内藤礼の主観や意志への関心を意味していません。彼女の美術市場での行動--それも本人がどう考えているかではなく、現象的にどう機能しているか、といった作品から離れた興味をもってしまうということです。そして、これもブログ全体をもう一度読んで貰えば気づいて貰えるかと思うのですが、そうした興味は中間部での寄り道でしかなく、そのあとは再び、作品とその提示へと視点を戻しています。

投稿 ine | 2005.05.28 01:06 午後

ご指摘にしたがい、ineさんのブログからの引用はとりあえず、元記事を編集して追加しておきました。省いていたのは「フィクション」という語が重複になるので引用しなくても分かるだろうと考えただけだったのですが、そもそもこの「フィクション」という言葉に対する態度に誤解があったのかもしれません。もう少し考えてみます。

投稿 てつか | 2005.05.28 05:06 午後

まず、最初に自分の記事がineさんの記事への批判めいた書き方になっていた点は誤解に基づいていたようなので撤回します。ただ、元の記事はineさん自身からいただいたコメントで誤解も解けると思うので、そのまま残しておくこととさせて頂きます。でも「中間部は寄り道」というけど、分量的にも、またおそらくineさんの興味としても、中間部の方に重きを置かれてる気がしないでもないのですが(^^;
また、「現実の作者とは切り離した作品自体と作品の提示(画廊という場も含めて)から読みとれること、受け取れることを考えていきたい」と言われるのは尤もだと思うし、自分もその立場に賛同するのですが、立場が同じつもりでも興味や感想の方向はずいぶん異なってしまうということなのかなあ。
ということなので、後は自分の感想なのですが、自分にとっては、内藤礼の作品に直接触れる機会は直島のきんざ以来で、その後にも先にも機会がなかったので、今回が2回目でした。また、ふだん現代美術を鑑賞する習慣もあまりないので、自分にとっては「内藤礼」ブランドは単に名前だけに近いです。
その自分が内藤さんの作品に触れて感じるのは、ineさんの言われるような「フィクション」ではなく、もう少し具体的な個人的体験とでもいうべき感覚です。そこでは、制作者の考えのようなものは、それが「フィクショナル」ものであれ、現実の作者であれ、明示的には意識しませんでした。たぶん、この点がineさんの視点とかみ合わなかった理由じゃないかと、今は思います。作者だけでなく、その作品の素材とか制作過程とかもあまり想像しませんでした。また、現代美術そのものにも疎いので、内藤礼やその作品の現代美術界での位置づけとか、そんなことも当然、全く知りませんから、ineさんの興味とはたぶん全く違うんじゃないかな。それで、じゃあ、何を観てたんだ、ということですけど(^^;、先の「個人的体験」というのは、作品を見ている自分自身の状態の変化みたいなものです。そもそも、今の自分にとっては画廊に出かけるという行為そのものが非日常であるわけなんですが、その非日常の空間で、内藤さんの作品を観ていると、最初は見えていないものが、ある一定時間向き合っているとだんだんとなにか見えてくる。それは、最初からそこにあったのかもしれないけど、自分には見えてないものだったわけで、自分の状態が変わることで初めて、自分にとっては、そこに存在するわけです。そしてそれは、また日常に戻れば、やはり埋もれて消えてしまうものなのかもしれないけれど、その自分自身の状態の変容が、たぶん、茂木氏の言う「認知的変容」ということなんだろうと思います。それは、別の個人メールで ine さんが「大ざっぱに言って、「余命三か月」と宣言されたら世界が違って見えるようになって輝きだした、というあの原理。それを、「余命三か月」なんていう極限状態にいかずに、穏やかな平常心のまま、体験してみよう、ということかな。」と書かれていたことと同じことなのかもしれないけど、自分的には、そういう気の持ちよう、みたいなものよりももう少し生理的な態勢のような気がしているのですが、それはよく分かりません。やはり同じものなのかもしれない。ただ少なくとも、今の自分自身にとっては、「余命三か月」は「フィクション」だけれども、内藤さんの作品の前で感じた体験はフィクションには思えないのですよね。

投稿 てつか | 2005.05.30 01:21 午前

内藤さんのレクチャーに関わる感想を書かれてるブログ記事がありました。参考まで。
http://d.hatena.ne.jp/manuka/20050514
http://d.hatena.ne.jp/manuka/20050529

投稿 てつか | 2005.05.30 08:28 午前

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